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2015年9月24日 (木)

東山動物園(4) ぞう列車

先日の中日新聞に、東山動物園の戦後のことが載っていた。

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 毛がとても硬くて、ズボンをはいているのにお尻までちくちくして痛かった。
今でもしっかり、覚えている。
 三重県四日市市の元教員、萩原量吉さん(74)は、小学3年生のころ、津市から出た「ぞう列車」で東山動物園に向かい、戦争を生き抜いたゾウ「エルド」の背に乗った。
 子どもの娯楽がほとんどない時代。
「ゾウに会えるなんて夢のようで。前日は楽しみで眠れなかった」
 終戦時、国内で生き残ったゾウは、東山の2頭と京都の動物園にいた1頭だけ。
京都のゾウが間もなく死んだため、戦後しばらくは国内に東山の2頭しかいなかった。
1949(昭和24)年、東京の子どもたちから「ゾウを1頭譲ってほしい」との要望が東山動物園に寄せられた。
だが、2頭を引き離すことはできない。
国鉄や私鉄、名古屋、東京両都市などが協議して、各地の子どもたちを特別列車で名古屋まで運ぶ企画が持ち上がる。
同年6月「ぞう列車」の運行が始まった。
 子どもだった萩原さんには、ぞう列車に乗った覚えも、「戦争を生き抜いたゾウ」という認識もなかった。
ただゾウに乗った楽しい記憶だけが残った。
 事情を知ったのは40年近く後、1冊の絵本を読んで。
小出隆司さん(76)=中村区=が書いた「ぞうれっしゃがやってきた」だ。
 小出さんが絵本を執筆したきっかけは、75年2月に岡山県で開かれた教員研修会。
戦時中、上野動物園で処分されたゾウに関する発表があり、発音を求められた小出さんが東山のゾウの話をすると、機関誌に誤って「生き残ったゾウの絵本がある」と書かれた。
 名古屋へ戻り、担任をしていた稲生小学校(西区)の1年生に全国の動物が処分された話を聞かせると、みんな泣きだしてしまった。
とっさに東山のゾウの話をすると「もっと敢えて」とせがまれ、「絵本を書こう」と決意した。
 すでに引退していた北王英一初代園長(1900-93年)を市内の自宅に訪ねた。
戦時の話を尋ねても、北王さんは黙ったまま。
「あなたは、私の心を引っかき回しにみえたんですか」。
それでも2回、3回と訪ねるうち、次第に重い口を開いてくれた。
「私は運良く守れただけだった」と話した姿が印象に残っている。
 飼育員の浅井力三さん(1923-2001年)と共に、猛獣を処分したつらい記憶をたどってくれたことも。
飼育舎にエサを置き、おびき寄せたライオンの首をワイヤでつった。
北王さんは「『ごめんな』と書いながらやったよなあ」と浅井さんに語り掛けた。
 小出さんは振り返る。
「動物を愛する2人とってあれほどつらい経験はなかった。2度と動物を殺すような世の中にしてはいけない」
 76年に自責出版した絵本は評判を呼び、83年に大手出版社が刊行。
累計発行部数は86000部を数えた。
 小学生だったあの日の記憶と戦争が生んだ悲劇を、小出さんの絵本でつなぎ合わせた萩原さん。
ゾウに乗った白黒写真を孫に見せては、ゾウを守り抜いた東山動物園の歴史を語り聞かせている。

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