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2015年9月28日 (月)

東山動物園(6) 植物園と一体

先日の中日新聞に、東山動物園の戦後のことが載っていた。

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 「植物園でも、人を呼ぶ方法はいくらでもあると思っていた」。
東山植物園は、動物園と一体の施設だが、その陰に隠れがち。
1987(昭和62)年の開園50周年記念事業として、植物園の高台での花畑の造成を任された富屋均さん(65)=昭和区=は、やる気いっぱいだった。
 「アピールが足りない」などと批判されていた植物園。
動物園勤務も経験しており、対抗心は燃え上がった。
 企業に寄付を呼び掛けたところ、バブル景気間近という時代性もあり、数千万円がすぐに集まった。
1億円を超える市の予算も取り付け、100種13万株が咲き誇る花壇を完成させた。
 87年3月から約2ヶ月開かれたイベントで、植物園の入園者は150万人の目標に170万人集まる大成功。
当時の新聞に、「思わぬ植物園人気」の見出しが躍った。
 といっても、その見出しからも分かるように、動物園と植物園の「上下関係」は、それ以前も以後もさほど変わっていない。
地下鉄駅から遠く、人影はまばら。
豊かな緑があふれ、折々の季節の花が楽しめる植物園に足を延ばす人は、動物園と比べれば多くはない。
 しかし、実は開園したのは植物園が21日早い「先輩」。
昭和初期の構想段階では、予算、規模ともに動物園を上回り、現在の動物園エリアに植物園を建設する案もあった。
 富屋さんによると、一帯の整備計画が持ち上がったのは東邦ガスの初代社長、岡本桜(1878~1935年)が戦前の32年、会社を通じ植物園建設のため、市に25万円(当時)を寄付したのがきっかけだった。
 寄付を機に市は動いた。
当時鶴舞公園で手狭になりつつあった動物園を移転させ、植物園と一体化して巨大な総合公園を整備する計画をぶち上げた。
 市内部では、動物園と植物園のどちらをより市電の駅近くに持ってくるか、激しい議論があった。
 動植物園20周年、30周年時に発行された座談会資料によると、33年ごろの市幹部の間では、植物園を駅に近い方に建てる意見が優勢だった。
だが、当時の北王英一・初代動物園長が大反対し「奥に(動物園を)持っていくのなら、鶴舞から動かない」とまで言って、動物園を駅近くにする主張を押し通した。
 それでも、構想は植物園を中心に進められた。
植物好きだった岡本が、寄付金の使途を植物園の建設に限ると明言していたからだ。
34年7月の名古屋新聞(現中日新聞)によると、植物園の総予算が46万円、面積36万m2だったのに対し、動物園は45万円、16万m2で、植物園より小規模だった。
 しかし、岡本が35年2月に亡くなり、次第に計画は動物園寄りに傾いていく。
 市議会で整備計画が審議されるうち、動物園の入場料収入が市の財政を潤すとの見方が広がり、計画案が変更された。
全体像が公表された35年秋には、植物園5万m2、動物園16万5千m2と逆転されてしまう。
 現在の動物園は32万m2、植物園27万m2で、当時ほどの差はない。
だが「岡本さんがもう少し長生きされていたら」と富屋さん。
東山には、今より巨大な植物園が広がっていたかもしれない。

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